香りが思い出させてくれたこと
朝吹真理子
小説家
街のにぎわいと、
人の営みとにおいについて
夜、銀座に用事があるとき、外からエルメスの建物がぼんぼりのように光っているのをみると、きれいだなと思ってながめています。お店のなかだと、1階のフレグランス売り場で香水を試している時間が好きです。以前パリのエルメスにおじゃましたときに、200年ぶりに引き揚げられた沈没船から見つかったロシアンレザーの話を伺いました。
特殊ななめし加工を経たその革が展示されていて(注;過去の現物が展示されていました)燻したような、ちょっと発酵したような甘い香りが会場に漂っていたのを覚えています。あまりにいい香りで、何度も深呼吸しました。このレザーの香りをヒントに、スミレの香りも合わせたオード・トワレ《ヴィオレット ヴォリンカ》をいま試していたら、コロナウイルスがまだどんな感染症かわかっていなかったころ、家からなるべく出ないことを推奨されていた、2020年の春を急に思い出しました。
あのころ、ほとんどのお店が閉じて、街からにおいが消えていました。道に流れていた、カレー屋やお蕎麦屋の香辛料やだしのにおい、石鹸屋のちょっと人工的な甘いにおい、水の腐ったにおい、人とすれ違うときに残るタバコや香水のにおい。心地いい香りも嗅ぎたくない臭気も、消えてしまうと、道の気配がなくなったようでとてもさびしかった。実は嗅覚によって、街ぜんたいを感じて歩いていたのだと、だからこそ香りという存在の大切さにあらためて感じ入った、フレグランス売り場でのひとときでした。
元気を取り戻してくれる
ハーブティー
以前、銀座メゾンの2階の奥のほうにシャンパン・バーがあって、一度だけ伺ったことがありましたが、その場所が今はカフェになっているんですね。社員の方やカフェの方たちが、畑仕事をしていて、カフェで出る生ごみを堆肥にして畑に戻していると、カフェの方から伺いました。
いただいたハーブティーはレモンバーベナ、ストロベリーミント、オレンジミント、アップルゼラニウム、スケルトンローズゼラニウム、マリーゴールド、ステビア、アニスヒソップの生の葉っぱを抽出したものでした。苦味がわずかにあって、清涼感があるお茶で、とてもおいしいです。自宅で紅茶を淹れるとき、ベランダのローズマリーをむしって、ひと枝、入れたりします。すっきり元気な気持ちになるのが好きで、原稿を書くときに、ときどき飲んでいます。
Mariko Asabuki
朝吹真理子
小説家。1984年生まれ。2011年『きことわ』で第144回芥川龍之介賞を受賞。最新刊は文庫版『TIMELESS』。2018年、エルメスの体験型展覧会開催時、その世界観から着想した短編小説集『彼女と』を執筆。